プラトンの著作の中でも、これは面白いのではないだろうか。
高名なソフィスト・プロタゴラスがアテナイを訪れているというので、ソクラテスが会いにいく。
そもそもソフィストとは何を教えるのか、というのが対話のスタートである。
ソフィストは弁論術を教える者であり、それは他の職業における技術と同様に、国家社会に有用な技術を教えるのだ、とプロタゴラスが主張するのに対して、それを徳の問題にスライドさせて、徳は教えることが出来ないとソクラテスは主張する。
だが長い対話の最後で、ソクラテスは徳とは知識の一部であると主張しており、プロタゴラスは知識ではないと主張している、とソクラテス自身がまとめている。
だが、最初に議論を間違えたのは、ソフィストが教える技術が徳という抽象概念と同じであると混同したソクラテスにあるのではないか。
またそもそも、この対話編におけるソクラテスが、ソクラテスの実像なのか、ソクラテスに仮借したプラトンなのかという疑問もある。
おそらくは、これはプラトンなのではないかという気がする。
プロタゴラスもまた、これはプロタゴラス個人の主張というより、プロタゴラスに代表されるソフィストという社会の中のセグメントの主張であるように思う。
物事を真・善・快の系列と、偽・悪・苦の系列に分類して、人間というものは前者の系列を行うのであり、進んで行うべきであるとプラトンは主張する。
二元論で世界を捉え、片方を正とし、他方を不正であるとする考えは、原理主義の萌芽であると思う。
一方でソフィストの立場は、国家社会における技術(主にそれは弁論術として相手を説得するための技術と思われる)を説くというのは、政治の職業化を表しているとも推測できる。
社会における政治、政治における議論が、技術によって為されるべきか、或いは一つの原理によって為されるべきか、という問題もこの対話篇の背後には隠れている。
そしてそれは、現代の民族主義的な不寛容さ、異質な文化に対するアレルギー的な排斥、単純化された世界認識に基づくアジテーションの応酬といった行動とどこかでつながっているように思う。
ソフィスト的立場は、明確にそれを主張する者がいなくても社会的事実として存在し、社会の変革を目指すものは、程度の差はあれ、プラトン的に成らざるを得ないのかもしれない。
この対話篇での議論を通じて、プラトンが説得に成功しているとは言い難い。
プロタゴラスもまた、この議論で自らの立場を擁護できているとも言い難い。
だが、この対話の失敗は、最初の問題のすり替えだけでなく、原理主義的主張に対する、現実解からの軌道修正ができていないことにもある。
ソフィストを攻撃するプラトンの立場としては、ソフィストが答えに窮すればそれで目的は果たせているだろうが、プラトン自身の主張を受け入れられている訳ではない。
そしてそれはプロタゴラスからも「君が自分で片付ければいいではないか」と言われている。
自分たちで思っているほど私たちは進歩などしていない。