雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

虹の理論/中沢新一


誤読の重力

虹の理論 (講談社文芸文庫)

虹の理論 (講談社文芸文庫)


もう少しで二重買いをするところだった。
持っているのは新潮社の単行本の初版である。
「虹」に関するアボリジニカトマンズの人類学的なレポート、著者のノートと中世日本の庭の概念、バリのブラックマジック、インドのタントラ、そしてゲーテと話題は世界を巡る。
何故この本を買ったことを忘れていたのか、そして何故この本をもう一度買おうと思ったのか、そのことが心に引っかかる。
この本で語られる「虹」をめぐる民俗学的な解釈を通じて、そこに著者が見出そうとしたものについて、買った当初は理解できていなかったような気がする。
それまでの、中沢新一の著作ではあまり語られていなかったエソテリックな事例の記述が、よりストレートに出てきたことで目を眩ませられたのかもしれない。
これは、もはや人文書ではない、と。
あるいは、いわば日常の世界と繋がった思考=言語が光の言語とするなら、非日常の世界と繋がる闇の言語に対して何か脅威的なもの、危うさを感じていたのかもしれない。
バルト、ソシュール丸山圭三郎栗本慎一郎といった本を読みふける中で、思考とは言語であり、言語が思考を規定しつつ、人間の身体観、ひいては世界観を規定している、すなわち人間にとって言語なくして世界は存在し得ない。
言語活動の表徴のひとつを書物であるとするなら、これを転倒すると世界は書物の中に閉じ込められてしまう。
それは、ボルヘス的な「バベルの図書館」、あるいは二度と同じページを読むことが出来ない「砂の本」のメタファーに繋がる。
話された言葉、書かれた言葉、それが世界の全てであり、もちろん、話されなかった言葉、書かれなかった言葉は想起された時点で存在するのだが、その非存在は夢想であり世界の外にある。
だが一方で、ユングエリアーデバタイユといった本に触れると、言語=世界の外が示唆されてくる。
無意識、通過儀礼、法悦、死といったそれらを実体論的に捉えることは誤読ではあるのだが、誤読以外に理解する方法が理解できなかった。
つまり理解しようとした時点で、外が中にあるかのように錯覚している。
だから、錯覚を錯覚と、誤読を誤読と意識しつつ、別の通路を探さねばならない。
別の通路を直裁に語ると、それは怪しげな神秘主義的な言説と紙一重だ。
エンターテイメントとしての光と闇の二元論的な世界、仮初めの現実と真なる高次元の隠された現実の世界、といった言説にも足をとられそうになる。
(さて「別の通路」についてはこれ以上ここでは語らないことにする)
改めて、中沢新一のこの本では、その危うさを感じたのかもしれない。
だが、改めて読んでみると、その危うさは読み手の危うさに他ならず、示される事例の理解の危うさなのだと思う。
この本の主題は「虹」およびそこから派生する人類学的思考の範囲を広げる試みなのだろう。
言語=世界を前提とした人類学的思考はともすれば機能主義的理解に陥りやすく、その前提の射程の範囲を広げていくのは、もうひとつの言語を仮定せざるを得ない。
だが、もうひとつの言語を、実体論的にオリジナルの言語の対立項と想定するのでは、誤読の重力に囚われている。