「イコノソフィア」で検索したら、自殺したくなる曲という都市伝説があるらしいが、この本とは関係が無い。
1980年代後半の中沢新一氏は、ニューアカデミズムや新人類というレッテルを貼られたポップスターだったのを思い出す。
それが良かったのか悪かったのかは預かり知らないが、改めてこの本を読んでそんなことが頭をよぎった。
イコンとは何かということではなく、イコンなるものに籠められた聖なる意味を解き放って、もっと新しくてポップなイコンを見つけようとする試み、と要約してみる。
取り上げられる題材が、書、マンダラ、聖ジョージの竜退治、シャーマン、天使、来迎図、チュリンガ、洗礼のヨハネ、コンピュータ・グラフィック(CG)、である。
これらのテーマを並べただけで、中沢新一氏的なるものが透けて見えてしまうし、予想する内容はそう外れはしないだろう。
この本について、そして展開される議論について、欠点を論う事は簡単だろうが、20年以上前の本に対して何の意味があるのか判らないので、ここでは本の内容についても、その議論についても語ることはしない。
つまり、この試みは失敗したのだと、半ば言い切ってしまっているのだけれど、それは放棄されるべき内容だったのだろうか。
思うに、イコンとして語るべき対象を取り違えてしまったことで、試みが躓いてしまったような気がする。
例えば、書について、表意文字/表音文字としての漢字を定義付け、そこから別の方向へ線を引こうとするのだけれど、その先が掛け声だけで終わってしまうのはもったいない。
書が持っている文字性にだけ着目し、絵画性を見落としてしまっていることで、議論が途切れてしまっているようだ。
そして、CGについて、無限遠点からの遠近法に、古くて新しいイコン的なるものを見出そうとしているが、それは果たしてCGの辿るべき方向性だったのかと、今時点から振り返るとそれは疑問だ。
むしろ、在り得ないものが、よりリアルに描かれるために、あらゆる視点を瞬時に移動したり、永遠なる一瞬を無限の視点で再構成するような発展をしてきたのだ。
中沢氏が議論の出発としている、「失われたイコン」という視座が、既に躓いていたのではないだろうか。
例えばCGで言うなら、映画の分野に於いてイコン的なるものは、次々と生まれては消費されていったと思う。
それは、スターウォーズのライトセーバーであり、マトリックスのロングコ−トを掠める弾道であり、実写化された春麗のサマーソルトだったりする。
そうなると、都市伝説化したこの本のタイトル自身が、どの内容より最もイコン的なるものだったのかもしれない。
- 作者: 中沢新一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1989/10
- メディア: ペーパーバック
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