雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

人間のない神/倉橋由美子

倉橋由美子の1960年代初頭の短編集である。
そこには時代背景が影響しているのか、政治を戯画化するようなテーマがある。
倉橋由美子を語るキーワードとして、反時代性だとか、反リアリズムだとかいうのをよく見るが、例えば「政治」というテーマを扱う手さばきは、基本的に笑いである。
「K」とか「城」とか、明らかにカフカ的キーワードにおいて政治を扱うことは、前提としての不条理とか理由無き権力とか、そういった文脈の中に物語を放り込んでしまう。
そこで描かれる政治の在り様として現れるのは独裁制であり、権力者は戯画化され、笑えるぐらい非人間的である。
だがそれは、現実の政治に対する批判では無いような気がする。
現実世界での独裁政治に似た兆候に対する批判という寓話として描かれているのではなく、政治をテーマとして描くことは戯画以外にあり得ないということを表しているようだ。
そして、この短編集で扱うテーマは政治だけではない。
雑人撲滅週間だとか、合成美女だとか、脳だけ生き続けさせられる囚人だとか、ある種、SF的イメージを使って描かれているのは、存在そのものであったり、男女の関係性であったりする。
そしてそれを扱う手さばきは笑いなのである。
そこでは、人間存在というものが根本において無化され、戯画化される。
雑人たちは役人によって狩られるのだが、ヒステリー化した(あるいは祝祭的な)狂気じみた集団に酔っても狩られるが、狩る方も狩られる方も徹底的に戯画化される。
差別意識や集団狂気、祝祭的犯罪への告発や批判があるのでは無く、存在そのものは戯画でしか表しえないということ、なのだろう。
限りなく人間に近いのだが人間では無い合成美女にまつわる恋愛は、男女関係におけるフェチシズムを暴き出し、その恋愛行為を戯画化していると思うのだ。


人間のない神 (1977年) (新潮文庫)

人間のない神 (1977年) (新潮文庫)