改めて言うまでもなく、永井荷風の代表作だろう。
簡単に纏めるならば、主人公の作家が小説の構想を練るために、玉の井界隈を徘徊し、運命的な女性に出会うのだが、そこには恋愛の物語が成就しない、というより主人公が成就させない。
彼女が主人公にとってのfemme fataleであることを意識しながら、恋愛の物語としての成就である結婚を回避する。
なぜ永井荷風はこの小説を書いたのだろうか。
物語として考えるなら、これは破格であろう。
起承転結で言うなら、転が抜け落ちていると思う。
物語としては破格のこの小説において、作者と主人公の関係が分かちがたく結びついてしまっていること、それが破格にさせている背景にあると思うのだ。
そしてそれは、作家である主人公という設定と、作家である作者との境界線が曖昧になっているように見える。
主人公が小説の構想を練るために街を徘徊する。
徘徊する街で主人公が見出すのは過日の名残である。
そしてそれを体現しているような女と出会う。
だが、彼女は過日の名残であるが故に主人公の目に留まったのだ。
主人公が過日の名残として、何を見出しているのかが披瀝されていく。
もう主人公と作者は分ちがたく結びついて、物語の転を迎えることは出来ない。
とって付けたような後日談があるのだが、それは主人公の物語の中の言動ではなく、作者の考えに他ならない。
もうひとつこの小説は、消え行く江戸、明治の東京の記憶装置として書かれているように思う。
引き合いに出される江戸の文人や、消え行く古い東京の習俗といった、古い東京の土地の記憶を記録するつもりだったのではないだろうか。
脱稿したのが昭和十一年、1936年であり、この作品が書かれた時点で、明治維新から既に60年以上経ている。
確か「日和下駄」に書かれていたと思うが、この頃の永井荷風は江戸の古地図を片手に東京を徘徊したという。
その視線は、現在を起点としてそこから過去に遡るのではなく、過去を起点としてそこから現在を眺めて、消えてしまったもの、変わらず残されているものに価値を見出し、新しいものは無価値なものとして退ける。
永井荷風が消え行く古い東京を、江戸の古地図をガイドブックとして見出し、その姿をこの作品に記録しているのだから、この本をガイドブックとして、もうすぐ出来るスカイツリーを唾棄するように向島界隈を散歩するのが、永井荷風的な読み方かも知れない。
- 作者: 永井荷風
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