著者は永井荷風の養子であり、荷風から見て従兄弟の子供にあたる。
荷風の逝去後、終の棲家となった家に移り住み、荷風の遺品を守っているという。
この本は荷風との思い出を、口述したのを纏めたものだそうだ。
なぜ私はこの本を読もうと思ったのか?
いまさら、永井荷風についての何かを知りたくて、この本を手に取ったのではない。
ある種の「永井荷風伝説」的な評伝や、作家論はいくらでもあるだろうし、そこまで永井荷風の作品に入れ込んでいるわけでもない。
繰り返しになるが、著者は永井荷風の養子で、遺品を守っている、という人物である。
その、養子/養父という関係、そして行きがかり上引き受けたであろう遺品の管理者という立場、そこに何かピンと来るものがあった。
近親者ならではの様々なエピソードが綴られる、と言いつつも、養子縁組をしていても生みの親の家で暮らしているため、荷風との親子らしき交流は無い。
むしろ、戦中戦後の混乱の時代を生き抜いた実の父母の苦労に思い出の比重が置かれている。
筆者にとって、生前の荷風は何だったのかと言えば、実の父母の思い出の傍らにいる変わり者のオジサンであり、そう記述している。
よく言われる吝嗇だとか、部屋で煮炊きのエピソードはお約束だろう。
また、多くを語らない記述もいくつかある。
そして「人間的な荷風と文学的な荷風は違う」と繰り返されている。
筆者の経営するバーの命名のエピソードに事寄せて、偏奇館焼失が荷風の変わり目だったとの記載もある。
ここに見られる、筆者と永井荷風の距離感は、家族としての距離感と荷風研究者であろうとする距離感の、双方の否定として現れているように思う。
実父母と比べてしまうと、家族らしい心の交流も無く、むしろ、しこりを残している思い出があるためか、記述は迂回してしまう。
一方で、遺品を守り続け、荷風研究者の端くれとして、何をか語ろうとしているようにも見えるが、それは「永井荷風伝説」をなぞっていく作業に過ぎないようだ。
つまり、家族としての回想をする訳でもなく、研究者としての論考をする訳でもない。
どちらともつかないこの回想録は、書かれていないことよりも書かれてしまったことで、筆者の心、すなわち永井荷風との距離感が意図しない形で透けてしまったのではないだろうか?
と思ってしまった。
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