雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

シュルレアリスム宣言・溶ける魚/アンドレ・ブルトン

アンドレ・ブルトン亡き後、運動としてのシュルレアリスムは終息し、既に過去の芸術運動の一つとして、博物館に飾られるべく存在になったのだ、と解説されたとしても、どこかで納得していない自分がいる。
それは、背伸びした中学生が、この本を理解できているのかも怪しいままに読み耽り、高揚感を覚えた名残なのかもしれない。
そしてまたこの「シュルレアリスム宣言」を読み返してみる。
ブルトン自らが、蛇行する頭のおかしくなるような、という記述を辿っていくと、まずは、想像力の称揚が現れる。
日常の中では想像力が制限されていることを告発し、幼年期を称える。
だが、幼年期そのものを憧憬しているのではなく、制限のない想像力を求めているのだ。
制限の無い想像力とは何か。
それは、狂気を巡る考察であったり、夢に関する考察であったりする。
それらの考察の中で、制限そのものについても言及する。
例えば、狂気に対する社会的な抑圧だったり、夢について語ることであったり。
夢を語ることそのものは、制限の無い想像力の発現ではない。
語られた夢は、既に夢の論理ではなく、日常の論理で語られてしまっている。
夢は眠りの中にしかないのではなく、日常が連続するように夢が連続して存在する、とブルトンは確信している。
つまり、夢の論理そのもので語られるべき存在、つまり現実を超える存在がそこにある、と主張している。
だが、超現実にたどり着くための通路は、日常の論理で語ることはできない。
それは、日常の論理の否定につながり、例えば、小説における描写という手法の嫌悪が語られる。
描写することは、日常の論理に絡めとられており、想像力を抑圧している。
だから、小説に対する詩の優位が語られる。
そして、容赦なきまでに想像力を引き出すための方法はひとつではない。
しかもブルトンが編み出した技法なのではなく、様々な先駆者が、そして同時代の作家たちが試みている手法を、シュルレアリスムと名付け、党派的行動を唱えようとしている。
シュルレアリスムとは想像力による革命を夢見ていたのだろう。
ここには、言語活動が意識や身体をコード化し、無意識も狂気もまた言語なくしては存在せず、想像力自体もまた例外ではないという、ソシュール的な思考には至っていない。
「溶ける魚」は自動記述による詩の試みであり、そこでは容赦なき想像力が捉えられているだろうか?
しかし、書かれたものは、既にシュルレアリスムの残滓に思えてしまう。
改めてシュルレアリスムとは何かと考えると、極限を目指す想像力の加速そのものであり、言語、絵画という表現をとる限りにおいては自己矛盾にいたらざるを得ない、心の在り様とでも言えようか。


シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)