雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

猛者(ワイルド・ボーイズ)−死者の書/ウィリアム・S・バロウズ

ワイルド・ボーイズは1969年頃の北アフリカ(主にモロッコ)から、アフリカ、中南米東南アジアの密林を中心に全世界に広まった少年の集団だ。
少年たちは、殺人、誘拐、強盗、戦闘、ドラッグ、男色といった、まあ世間的には非道徳的、非合法的な活動を行い、それぞれの集団同士は独自のネットワークでつながっている。
最初は志願者たちの集団だったが、やがて乳児の誘拐、人身売買による調達、精子バンクからの人工授精(女性は子供を生む機械と見做される)といった生命工学的な領域にまで手を伸ばす。
彼らは挨拶代わりに、ワセリンを塗り、突っ込みまくる。
バロウズの同性愛の描写は、乾き切って、即物的だ。
(それに比べて、ミシマの同性愛の描写はまるでBL的だ。でも、その軽さがミシマのポップさそのものなのだが、ここはバロウズの話に戻る。)
1976年にアメリカによるマラケシュからの掃討作戦が行われたが、あえなく壊滅状態になる。
主人公は今ひとつはっきりしないが、1988年にワイルド・ボーイズに接触、合流しているようだ。
バロウズはこれでもかと、ホモセクシュアル、スカトロジー、サディズム、マゾヒズム、犯罪趣味など、およそ良識的なる事とは反対の、悪趣味といっても良い描写を繰り返す。
かと思えば、感傷的な少年時代の回想(バロウズ自身の思い出?)、映画を意識したマルチ・スクリーンの描写、句読点も無く続く文章、おそらくカット・アップを応用したと思われる脈絡のよく判らない文章、といったものが間に混ぜ込まれる。


この物語は誰のための物語だろうか?
なぜ私はこの物語を読むのか?
読む私とはいったい何者なのか?


読み解くためには、いったん作品とは誰のものだろうか、と考える。
作者のものであるならば、読者はそこに作者の姿を見出すのが、読むという行為の到達点として設定しても良いだろう。
読者のものであるならば、読むという行為自体の意味を読者が見出すべきではないだろうか。
バロウズの何を見出すべきか、バロウズを読むということを問うべきか、それがこの本の意味なのだ。
とはいえ、エンターテイメント性を忘れている訳でもない。
おそらく、バロウズ自身が面白がって描写しているような箇所だってある。
悪趣味な描写だって、繰り返して重ね上げていくことで、笑いさえも漂わせる。
ここには、作品と読者のそれぞれの分断(読まれる作品/読まれない作品、読み耽る私/読むことを放棄する私)が、封じ込まれている。
物語自体がカット・アップされ、断片化し、混乱させられているのだから、この作品は読むことを拒否している一方で、作者のユーモアによって読ませようとしている。
この作品を読むことは、混乱させられた物語を丹念に拾い集めて、作品を再構成する試みのためなのかもしれない。
だが、それは同時に作品の多面性を損なう考えなのかもしれない。
しかし、こうして何をか書き綴ってしまうこと、それこそがこの本を読むことの意味なのだ、とも思う。


猛者(ワイルド・ボーイズ)―死者の書

猛者(ワイルド・ボーイズ)―死者の書