雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

UFOとポストモダン/木原善彦

図書館にふらりと立ち寄って、ちょっと目に留まったので借りてみた。
UFO目撃譚に代表される「UFO神話」なるものを、近代からポストモダンの文脈で捉える、といった本だろう。
第二次世界大戦後から1973年までの「前期UFO神話」時代、1973年から1995年の「後期UFO神話」時代、そしてそれ以降の「ポストUFO神話」の三つで語られる。
注意しなければいけないであろうことは、これは「UFOにまつわる言説」の解説であり、神話化もしくは都市伝説の類型についての考察なのである。
取り上げられていない都市伝説に誰何することも、UFO文書の真偽について異議を唱えることも、有効な反論となり得ない。
社会学的にある枠組を提示し、現象を分類する、そんな手法を応用したもの、と言ってしまったら言い過ぎだろうか。
この本における言説自体が「ポストモダン神話」の一部であり、ポストモダンなる物語を強化することを担っているのではないか。
この本で言及されている「神話化」の重力圏をこの本自体もまた逃れ得ない。
超越的な存在としての大文字の他者から、他社の他者的存在、そして他者ですらない存在への変化を、ジジェクを緩用しつつまとめる辺りは判り易いだろう。
だが、ボードリヤールを緩用し、ポストモダン的なイメージが現実に先行する世界観を説明する辺りはいまひとつ馴染めない。世界の悲惨さを映し出すメディアも、それを反復するWebアーカイブも、それはシミュラークルが世界を覆い尽くしてしまったことの現われではないだろう。
理論に先行する現象とは、選び取られた現象に他ならないのだから、そこにあるのは欲望の働きなのではないだろうか。
そして恐らく、UFO神話はこれからも反復的再生産され続ける。
その媒体が口伝から出版メディア、映画、Webと形態を変えながら、モダン/ポストモダンの協会を自在に行き来しながら欲望されるのだろうと思う。


ポストモダン的な世界において、神話的に立ち現れるものは、ノイズ的な存在であると語られる部分がある。
そこで思い出したのは、娘が見ていた前シーズンのプリキュアシリーズの「スイート・プリキュア」で、究極の敵が「ノイズ」であり世界をノイズで満たし、不幸のどん底に落とし込もうとしているという構図だった。
美しき音楽と対立するものはノイズであり、前者を真善美の系列に置き、後者を駆逐されるべき悪と捉えるイメージに、ちょっとした違和感を覚えたのだった。
恐らく浅田彰の「ヘルメスの音楽」だったと思うが(というのは今手元に無いので、記憶で語っているのだけれど)、グレン・グールドの完璧なまでのバッハ曲のピアノ演奏における、グールド自身のうめき声が言及されていた。
それについてどのような考察だったかもう覚えていないのだけれど、それがグールドを語るポイントだったと思う。
あるいは、1980年代に京都を中心に活動していたEP-4というバンドは、冷たいファンクとも言うべき、完璧なまでのグルーヴの果てに、過剰なエフェクターによる轟音にも似たノイズがクライマックスに挿入されることで、曲のカタルシスを迎えていた。
あるいは、これも1980年代に活動していたバンドのカトゥラ・トゥラーナは、管弦楽とロックがミックスしたようなバックに、女装した男性が非言語とも言うべき何語でもない歌を裏声で歌っていたのは、ノイズそのものがひとつの音楽であることの体現だったのではないだろうか。
そして最近の例で言うなら、Perfumeにおける中田ヤスタカ氏による打ち込みと、その一部であるかのようなヴォーカルで作り上げられた世界を、鍛え上げられたダンスという肉体によるノイズが相克する様がその魅力となっているように思うのだ。
つまり、ポストモダンなるものをどう分析しようが、そこにあるのは調和と破壊とを行き来する欲望の働きであり、近代が終わろうと終わるまいと手を変え品を変えて噴出するものなのではないのか、ということを思った。


UFOとポストモダン (平凡社新書)

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