雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

西瓜糖の日々/リチャード・ブローティガン

何だかブローティガンが読みたくなる。
この本は、名前のない「わたし」が、アイデス(iDEATH)に暮らすいきさつやら、日々を描く。
その名前と言い、それを取り巻く「忘れられた世界」や、対立するインボイル(in boil?)、虎たちや鱒たちなど、とても意味ありげな世界観が作られる。
だから、きっと気に入らない人も多いだろう。
まあ、現実逃避的で、傷つき易さを前面に押し出したような作品と見えないこともない。
物語に浸って、現実逃避するのが、この本を読んだことになるのだろうか。
あるいは、アイデスを脅かす様々な力に現実世界を重ね合わせて、そこに寓意を見出すのが、この本を読んだことになるのだろうか。
それらの読み方を否定はしない。
むしろ、そう読みたければ、そのように読み込めば良い。
気になったのは、なぜ主人公は名無しなのだろうか、ということだ。
両親を虎に食べられ、別れた彼女が自殺し、新しい彼女や友人と共にアイデスに暮らす主人公は、なぜ名無しでなければいけないのだろうか。
名前が元から無いのか、あるいは名前を捨ててしまったのか、それとも名付けようの無い存在なのだろうか。
物語の中では明らかにはされない。
だが、名前は捨てられたのだ、と思った。
アイデスの外の世界が「忘れられた」ように、名前は捨てられたのだ。
世界は忘れられ、虎たちは最後の一匹まで殺され、インボイルはアイデスの真実を明らかにすると言って自殺したのと同じように、主人公の名前は捨てられた。
名前を捨てることができても、不眠症気味の夜の散歩は止める事が出来ない。
そう思うと、主に描かれるアイデスの日々は何と空虚なものに見えることか。
その恐ろしいほどの空虚さが、美しい比喩で描かれるこの本の恐ろしさなのだと思った。

西瓜糖の日々 (河出文庫)

西瓜糖の日々 (河出文庫)