平行で何冊か読んでいたうちの一冊。
今ひとつ響かず。
何でだろうかと考えてみると、恋を詠いこむことに、違和感を覚えている。
誤解を恐れずに、一言で言うと、キモチワルイ。
あなたのことをこんなに想っているのに何で判らないんだろうか、と詠ってしまう形式が嫌だ。
想っていようといまいと、そう詠うことが和歌という形式の一部になっている。
中身は無くとも、そう詠わなければ和歌ではないように思わされる。
個人対個人の恋情ではなく、対象もなく恋情のようで恋情では無いものが、レトリックを纏ってどのページにもこびりついている。
たぶん読み返さないだろうという気がした。
- 作者: 島津忠夫
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1999/11
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まあ待て、と、風呂の中で考えた。
ここに収められた歌が、個人のものだという前提で決め付けるのは良くないだろう。
確かにそれぞれの歌には、詠んだ個人名が付されているが、その実、詳細不詳な人物が大半である。
仮に作者よりも先に、歌が存在していたとしても、つまり、歌にふさわしい人物像が作り上げられていたとしても、否定できないのではないだろうか。
あたかも、個人の心情吐露のように和歌を考えてしまうのは、既に近代の重力圏の中にいて、そこから和歌を観測しているだけだろう。
ここにあるのは、個人なんてものが存在する以前の歌なのだ。
個人に先行する恋情は実在し、個人の恋情なんてものは存在しない、と考えた方が良いだろう。
むしろ、恋情とはそういう歌に詠われるものであり、そこに個人なんてものを代入した近代短歌の方が倒錯しているのかもしれない。
まだまだ、古典は読めていないと痛感する。