雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

箱男/安部公房

久しぶりに「箱男」を読み返してみる。
今更、荒筋なんて何の意味も無いだろう。
むしろこの物語は荒筋を語ったところで何の意味もない、と言うべきかもしれない。
いくつかのテーマがそれぞれに展開される。
まずは、見ることをめぐって書かれた物語だといえる。
箱男とは、箱を被って、その見られる存在を消し、能動的に見る視線だけの存在となることだろう。
見られることを拒絶し、見るだけの存在になり、覗き見る。
だが裏返しに、見つかってしまうと空気銃で撃たれたり、浮浪者から襲われる存在でもある。
異端であり、迫害される。
見ることと見られることは等価に交換されるのではないが、見ることの不能と見られることの快楽は釣り合っている。
また、世界の内と外をめぐる物語でもある。
ダンボールの中に閉じこもり、社会から気づかれない存在になるということは、世界をダンボールの内側に閉じ込めてしまうということだろう。
ダンボールの外側は誰にも気づかれないZEROの存在である一方で、内側は大量の余白が確保された空間であり、迷路でもある。
無限小の中に畳み込まれた無限大の存在なのだ。
もうひとつ言うとしたら、本物と偽物の曖昧さの物語である。
本物であること、オリジナルであることと、偽物であることの違いが、転倒されているようだ。
本物であることの価値は限りなく無化され、偽物こそが箱男の物語を語り得ているようだ。
いったい誰が箱男だったのか、という問いに対する答えは、問いが無意味なのだ。
箱男という存在の発明(あるいは発見)そのものが、物語の中心なのだ。


箱男 (新潮文庫)

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