久しぶりに読み返してみると、この本は西洋に対する東洋のアジテーションなのだなと思った。
茶の歴史と道教と禅に触れ、西洋が蔑んでいる東洋の奥深さを紹介している。
神秘的な東洋というステレオタイプは、この辺りにも源流があるのかもしれない。
富国強兵のスローガンが、列強と政治経済的に肩を並べようとする立場だとするなら、文化的にも西洋に阿るだけではない、東洋を認めさせようという立場に、この本はあるのかもしれないと思った。
西洋というひとつの目標に対して東洋を対峙させ、その二項対立から台頭へ至る戦略だろう。
この本で想定している西洋も東洋も、共に単純化されたカテゴリーに他ならない。
具体的な国名は登場するものの、その範囲は明確には規定していない。
しかし、明確でないからその論点が無効かというと、そうではないだろう。
現状を単純化し論点を強調するやり口は、アジテーションに他ならないのではないだろうか。
もともと英語で書かれたこの本は、西洋諸国の東洋への進出に対して、一矢報いるための本だったのではないだろうか。
しかし、書かれてから既に100年が過ぎた21世紀に、この本を読むということは、いったい何なのだろうか。
少なくとも、西洋と東洋という単純モデルでは、世界を説明できない状況になっている。
様々なレベルで細分化された集団が、それぞれの価値を主張しているし、それに逆行するように単純化して理解することは、むしろ危険なのではないだろうか。
まるでこの本の受け売りの如く、ただ茶や道教や禅を持ち上げるのは意味が無いだろう。
であれば、その組み合わせに注目すべきであろうか。
茶という日常的なるものの背景に、道教や禅という観念的なるものを組み合わせて、商品として提示すること、それが見るべきポイントだろうか。
だがそれも、商品に物語性を付加するという、広告で使い古された手法のようにも思える。
ひとつの日用品にも頑固な職人の匠の技が、みたいな話に似ている。
もっとも、そんな考えは穿ちすぎた考えで、茶の湯に心酔し、エピゴーネンとして振舞うためのテクストとして読む、というのも可能ではある。
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