雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

終りし道の標べに/安部公房

この本は安部公房氏の作品の中でも、マイナーな方なのではないだろうか。
舞台は終戦間際の満洲だ。
主人公Tの独白と回想を書き綴ったノートという体裁だ。
この物語を要約することは難しい。
詩的なるものを志向している表現と、物語を展開しようとする表現が入り混じる。
主人公は故郷を捨て、満洲で暮らしていたのだが、旅の途中で政治的混乱に巻き込まれ、囚われの身になってしまう。
病に冒され弱りゆく身体でノートを書き綴る。
主人公を監禁してる土匪たちは、そこに重大な秘密が明かされているのではないかと邪推し探り合っている。
やがて、延命のための阿片が与えられる。
禁断症状に襲われながらも、ノートを綴ってゆく。
この物語が何の物語だろうかと、思い巡らせても、上手く捕らえ切れていないような気がする。
主人公の第一のノートの冒頭にある「何故に人間はかく在らねばならぬのか?」という問いに対する答えだとしたら、それは不在による存在の証明という逆説ではないだろうか。
故郷を捨て、到達できない故郷を希求することが、存在にとっての故郷なのだ。
国家でもなく、社会でもなく、友人関係でもなく、恋人関係でもなく、敵対関係でもない。
回想で綴られてゆくそれらのエピソードは過ぎ去ってしまったものであり、もうそこに至ることはない。
人間同士の関係性は縮小して行き、私自身の大きさにまで縮小する。
「かく在る」私は、何処でもない所で孤独に死を待つだけの存在となり、私と故郷は等しくなる。
ノートに綴られていたのは、過ぎ去ってしまった事物であり、既にそこには私はいないということを表すだけであり、つまりは、私が在るということは、他の何にも規定され得ないということを、裏書した標べなのだ、ということなのだろう。


終りし道の標べに (新潮文庫 あ 4-11)

終りし道の標べに (新潮文庫 あ 4-11)


持っているのは、新潮文庫版。
講談社文芸文庫でも再発されたようだ。


終りし道の標べに (講談社文芸文庫)

終りし道の標べに (講談社文芸文庫)