雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

聖なる陰謀−アセファル資料集/ジョルジュ・バタイユ

陰鬱と哀しさ


一言で言うなら陰鬱だ。
そして哀しい。
シュルレアリスムに失望し、普遍経済学を見出す過渡期に、戦争という危機的状況の中でバタイユが試みた全体性回復のひとつがアセファルであり、その機関紙はわずか3冊だけが発行された。(1号、2号、3・4合併号)
だが、その背景にある活動について、様々なメモ、資料を収集しているのがこの本、という位置付けになる。
アセファルの試みとはバタイユの思想としての資料というより、むしろその頓挫に読み解くべきポイントがあるのではないだろうか?
試行錯誤の足取りと比例(あるいは反比例?)するように、周囲との軋轢を抱えて行き、そのことで方向修正を迫られている。
その歩みと並行しているのが、WW2である。
(この辺りから、私の記述は混乱する)
戦争という巨大な暴力に対して、それまでの民主主義は対抗できないという認識に立ち、その対抗手段を模索するのがアセファルの試みのひとつの軸であろう。従って、それはWW2目前の欧州の時代背景にあるコミュニズムアナーキズムファシズムという政治思想とは無関係ではありえないのだが、実践における対抗手段は神秘主義に典拠している。(神秘主義という言葉自体が正確に言い表していない違和感があるのだが)巨大で無慈悲な暴力を無効にする、力に力を以って対抗するのではなく、力そのものの価値を零落させることを目指したように思える。つまりそれが、「死を前にした歓喜の実践」「祝祭」といったキーワードであり、ニーチェの再評価につながっているのだろう。このベクトルにおいて、シュルレアリスムが政治思想に接近していった迷走の時期も理解できるように思える。眼前の世界における政治思想(と、その背景にある経済思想)に対して、対抗手段としての別の主義主張を唱えるのではなく、その根底から無効にしてしまうこと、パラダイムを組み替えてしまうこと、根底から覆すことで現実世界の在りようを変えること、それがバタイユの試みであり、シュルレアリスム(ただし失敗する)であったように思うのだ。

とは言え、バタイユを知ってしまうと、そこから逃れられなくなるのは何故だろうか。
妙な高揚感で危なく次の本もバタイユを選んでしまうところだった。
とは言え、ニーチェを読み始めるのもきついものがある。
ウォッカテキーラをちゃんぽんで呑んでいるような気分にすらなる。
アセファルの儀式には岡本太郎も参加したらしい。