雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

蠅の王/ウィリアム・ゴールディング

この本もまた手放してしまった本である。
少年たちが無人島に漂着し、救助を待つうちに、狂気と殺戮の世界へ陥ってしまう、という物語だったと思う。
ジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」とほぼ同じ設定でありながら、正反対の場所に物語はたどり着く。
もちろんそれが、この物語の狙いなのだと思う。
「十五少年漂流記」がジュブナイルとして素晴らしいのと同じように、この物語もまたこの世界の寓話として素晴らしい。
寓話として、この本は性悪説、またはキリスト教的な原罪の観念が前提にあるように思う。
その結論が正しいかどうかなのではなく、前提から結論へのダイナミズムが、寓話としての力になるのではないだろうか。
つまり、観念の思考実験として、小説は存在することができる、ということである。(もちろんそれ以外の存在の在り様もある)
少年たちが体現しているのは、この世界の縮図であり、そこでの出来事は、この世界内の出来事のアレゴリーとして立ち現れる。
外界から隔絶された島は、人間社会を表しているのだろう。
ただ、自然はその外部に存在し、少年たちを脅かす。
外なる外部は内なる外部に転換し、理性でコントロールできない反応を呼び出し、少年たちの闘争を引き起こす。
だが、この寓話における推移は、なぜ引き起こされたのだろうか。
人類という種の原始状態は、生き残りを賭けた闘争であり、理性がそれを規制することで社会が形成されるという、ルソーやエンゲルスの夢見た、ロマンティックな神話を前提にしていないだろうか?
いやそうではない気がする。
この物語の少年たちは近代の理性主義を前提としない、可能性としてある未来の、ある種、別の種族のような存在と考えられているのかも知れない。

蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)