雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

民俗学の旅/宮本常一


宮本常一の自伝である。
その平易で気負いの無い語り口で、すいすい読めてしまう。
山口県周防大島に生まれ、やがて柳田國男澁澤敬三に導かれ、民俗学の徒となる。
だが、この本に書かれているのは、その生涯の一部分にすぎない気がした。
もちろん全てを書くことなど不可能ではあるが、どこかの地方を歩いて訪れた、という数行の記述は濃密な時間であっただろうと思われる。
しかも、第二次世界大戦時に戦災に遭い、いったんその聞き書いたノートを焼失してしまっている。
今読める「忘れられた日本人」などは、戦後の成果だったのだ。
日本中を歩き、古老から聞き出す、という手法で、村落共同体の生活というものを拾い上げたのが、宮本常一の成果なのだろう。
そこには、自ら「百姓」と名乗るほどの自負が溢れている。
確かにそこには、打ち捨てられ、やがては消滅してゆく、日本人の生活のひとつがあることには違いない。
だが、それが美しかったり、忘れられるべきではないものであるか、というとどうなのだろうか。
人々の生活というものは、何処であろうと絶えず変化するものには違いない。
農村の生活が、自然と向き合う知恵を積み重ね、少しづつ変化したように、都市での生活は、絶えず余所者が流入するという、急激な変化を遂げているのではないだろうか。
農村で失われ行くものを拾い上げたのは、宮本常一が村落共同体に同朋意識を寄せたから拾い上げることができたのだけれど、世間では同時に、地方出身者が都市部に急激に流入することで居住地の拡大、人口過密化などによって、都市部の共同体もまた失われていったものがあったのではないだろうか。
村落共同体における民俗学と同時に、都市における民俗学も掘り起こされるべきでは無いだろうか、とふと思った。


民俗学の旅 (講談社学術文庫)

民俗学の旅 (講談社学術文庫)