久しぶりに引っ張り出して読んでみる。
高橋睦郎の詩に出会ったのは、高校生の頃に読んでいた「ユリイカ」だったはずだ。
或いは、澁澤龍彦経由だろうか。
ともあれ、その世界に引き込まれたのだと思う。
十代後半に詩集を読んでいる男なんて、甚だしい時代錯誤か、薄気味の悪い童貞男だと思っても構わない、と自虐的に思うが、それをも確信犯的に詩集を読み漁っていた。
つまり、寺山修司の言う「歌の別れ」ではないけれど、詩を読むのは今だけなんだろうという気がどこかでしていた。
いつか詩歌を読まなくなり、小説も読まなくなり、本から離れて、平凡な日々の生活に埋没して行くのだろうという予感と願望があったのだと思う。
本を読むことは病であり、読み耽ることは自涜に等しい、と思っていたのだろう。
薄らとそんな記憶も蘇ってくる。
だが、結局、本は読み続け(とは言え、高校生の頃に読み耽った本の大半は処分したが)、こうして詩集を読む中年男になったのは、どこかで道を誤ったのか、道を踏み外しているのかもしれない。
誤ったついでに、高橋睦郎の詩を読み返した感想も書いてみようか。
高橋睦郎の詩には、男色、犯罪、汚穢、死といったものが、頻発する。
汚いものが美しい、というのが、反語的レトリックではなく、語られているように思った。
それは、寺山修司が母子家庭や貧困、エディプス的構造を、架空の設定として詩情を生み出す装置として取り扱うのとは対照的だ。
汚いものこそが美しく、一般的に美しいものなんて語りもしない、なぜなら存在する意味がないから、といったスタンスといえば判るだろうか。
そして、汚穢、死といったものこそが至高に至る唯一の回路であり、詩そして言語を超えていくことが出来る、ということだろう。
読み返してそんなことを思った。
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