雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

近畿地方のある場所について/背筋

おそらく3か月ほど待ってようやく借りることができた。

怖いと評判だけは聞いていたが、なるほどよくできていると思った。

ホラー小説を読むということは、恐怖するという娯楽であろう。

この物語での恐怖を盛り上げるために、笑いと不安定な動きのモチーフが繰り返される。

恐怖の場面での笑い顔、ゆらゆらと動く首、繰り返されるジャンプ、ゆらゆらした手招き、それらのイメージは少しずつ形を変えながら繰り返される。

それ自体は恐怖ではないにも拘らず、恐怖のシチュエーションの中に登場させられることで、恐怖の記号として意味付けられる。

繰り返される恐怖の記号は、様々なメディアを通して語られたことになっていることで、恐怖の正体が仄めかされる。

だが、恐怖することの本質とは何かと考えると、それは不在であろう。

古典的な怪談であれば、いるはずの人がいない(またその反転である、いないはずの人がいる)、有るはずの足が無い、有るはずの顔が無い、というモチーフである。

この物語では、情報が無いこと、つまり真相に辿り着けない、理由が分からない、消息が分からないことが恐怖の本質として設定されている。

そして、様々な語り口を通して、不在の恐怖が語られる。

雑誌からの引用、取材メモ、2ちゃんねるのログ、録音の文字起こしといった語り口は、恐怖を語る枠組みとしての伝聞のバリエーションである。

しかし、繰り返されるモチーフ、語られないことの恐怖をうまく配置しながら、巧妙に物語は進行し真相が語られそうになって、最後にどんでん返しの仕組みによって読者は物語の中に組み込まれたことを知ることになる。

これ以上はネタバレになるので、言及するのは止めておこう。