何だかテレビを見るよりは、本でも読もうと読みかけの本に眼を通したのだけれど、読み進めるだけの気力が無くて、何となくマンガを手にとっているうちに、この本に引き込まれてしまった。
近年ドラマにもなったようだし、今更ストーリーを解説してもしょうがないが、軽く一言で言うなら、「金こそが全てだ」と公言して憚らない主人公・蒲郡風太郎の悲劇の物語である。
その悲劇の根源は何処にあるのかというと、それは蒲郡風太郎自身の「金こそが全て」という考えを徹底できない弱さなのだというのが、この物語の展開における中心であり、返す刀で、悲劇に見舞われない読者たちを蒲郡風太郎以下の存在だと断じる。
もし蒲郡風太郎が、本当に「金こそが全て」だという考えを徹底したならば、この物語は成り立たない。
だから「金が全てではない」というメッセージなのであろう。
そのメッセージは作者自身のメッセージなのかもしれないが、この作品が発表された1970年という時代性が、作者を通じて現れていると考えても良いのかもしれない。
さて、この作品における「金こそが全て」という考えを、もう少し解説すると、金を手に入れるためなら、犯罪に手を染め、金を使って、人の心を自在に操ろうとし、金さえあれば世界を支配できる、「金さえあれば何とかなる」と信じる姿である。
だが、この考えにおける「金」とは、別の価値あるものを手に入れるための手段なのであり、手段そのものに価値を絶対化するその時点で自己矛盾を孕んでいる。
さて「金さえあれば何とかなる」と信じていたのは果たして誰だろうか?
蒲郡風太郎は、1970年の日本において、特別な存在だったのだろうか?
物語が返す刀で読者を斬ることからも、蒲郡風太郎は特別な存在ではない、と読み取るべきだろう。
そしてその「金さえあれば何とかなる」という考えは、1970年の日本における暗黙の了解として存在していたからこそ、この物語は成立しうるのだし、その否定である「金だけではどうにもならないものがある」という考えもまた、暗黙の了解として存在していたのだと言えよう。
さて、2011年において「金さえあれば何とかなる」/「金だけではどうにもならないものがある」という考えは了解し得るものであろうか?
バブル崩壊以降の時間を過ごした眼には、あらゆる価値が相対化され、金=富もまた絶対的でないことが、嫌というほど示されたように思う。
だから、「金さえあれば何とかなる」/「金だけではどうにもならないものがある」という考えは、時にYESであり時にNOであるとしか答えようが無いのではないだろうか?
金とは、言語と同じく、精神活動の根源に関わる構造体であり、また、価値の異なるものを流通させるための媒介項であり、なおかつ相対価値を表すための手段として使われ、生きていくために食べ物と交換される。
この2011年の世界において、蒲郡風太郎が「金こそが全て」という考えを先鋭化し、より徹底させたとしたら、どうなるのだろう?
巨大な資本主義国家を作るのだろうか?
あるいは、巨大コングロマリットの中心に座るのだろうか?
そんなことを想像してみた。
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