雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

他者の苦痛へのまなざし/スーザン・ソンタグ

本に呼ばれる、という感覚がある。

読みたいな、というのではなく、あ、これは読まないといけない本だ、と思ってしまう感じに近い。

読まなければいけない、というのは義務でもないし、何かタスク的なものでもないが、切迫感はある。

オカルトっぽい「呼ばれる」というのに近いかもしれないけれど、心霊現象に遭ったことがないので、同じかどうか知らない。

ともあれ、この本もまたそんな本だった。

ソンタグ(ソンターグと発音するほうが近いらしいけれど、人から聞いた話なので、あてにはならない)を知ったのは高校生の頃だったと思う。

「反解釈」の単行本を、確か新宿紀伊國屋書店で買ったのじゃなかったかと思う。

なんで手に取ったのかは覚えていない。

アルトーに言及していたからかもしれない。

話を戻すと、この本は報道写真から始まり、戦争に対する報道、プロパガンダといった視覚メディアについての考察である。

ただ、それを伝えるカメラマン、マスメディアを倫理的に誰何するということではなく、それを見ている私というものも含めた考察である。

なぜ悲惨な報道を行うのか、なぜ悲惨なニュースを見るのか、を問うこと。

ボスニア紛争、9.11、パレスチナ紛争、ルワンダ紛争

そこには目を背けたくなる悲惨な出来事があり、それを伝えるニュースがあり、それを見ている私がいる。

20世紀初頭に遡り、ニュースを伝えるための挿絵替わりの演出を含めた戦場からの報道写真は、やがて真実を保証しているかのような振る舞い、読み解かれていく。

タブッキの「インド夜想曲」でも、フレーミングについての挿話があるのを思い出す。

ソンタグの考察は何かを断定し、特権的な位置を確保するような論考ではない。

繰り返しになるが、世界の悲惨な出来事を映像として切り取り流通させるメディアと、それを見て消費していく私、どちらもが悪ということでもないし、写される無垢な犠牲者というのもまた真実ではない。

バタイユの「エロスの涙」に収録された、20世紀初頭に中国で撮影された路頭で生きたまま切り刻まれる処刑者の写真も参照される。

ソンタグの主張としては、見るという行為に耽溺してしまうのでなく、考え続けることでしかないように思った。

まだ内容が掴めていないかもしれない。

再読が必要だろう。