雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム/寺山修司

何となく寺山修司の言葉に触れたくなった。
この本は寺山修司の様々な著作から選び出された「気の利いた言葉」が、ローマ字でのアルファベット順のテーマに沿って並べられている。
意図したのか偶然なのか、「愛」に始まって、「夢」で終わる。
それぞれの言葉たちは、隣の言葉とは関係がない。
文脈から切り離されて、ポンとそこに置かれている。
本当は何処から読んでも良いのだろうし、全部読まなくたっていいのだろうと思う。
(こういう時、紙の本の不自由さをちょっと思うが、それは余談だ)
この本に選ばれた言葉たちは、どこかカッコつけている。
寺山修司自身が「気の利いた言葉」って言っているのは、そういうことかもしれない。
ともあれ、ちょっとした時間にも開いて読んでみる。
詩のように凝縮された濃密な言葉とも違う。
物語のように積み重ねていくうちに酔わせるような言葉とも違う。
やっぱり、どこかカッコつけている。
なるほどね、とは思うのだけれど、反発したり、同意したりという気はしない。
淡々と読み進む。
読み進むというよりは、拾い読みが連続している感じ。
そして読み終わると、いつかまた開いてみたくなるような気がする。
それは、この本を読むということは、言葉と向き合うということだからだろうと思った。
上手く言い得ていないような気がするが、情報を得るための言葉とか、誰かと心を通わせるための言葉とか、そういった言葉との向き合い方ではない、言葉そのものと向き合って、ひいては自分自身に至るようなそんな本なのかもしれない。


両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)

両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)


(読み返してみて思ったのだが、この記事がちょっとイイ事言ってみた風になっているのは、寺山修司の魔力にかかってしまっている様だ。それほどまでに、感染力があるということだろうか)