雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

最暗黒の東京/松原岩五郎

ちょっと気になっていたので図書館で借りてみた。
明治時代の東京の貧民窟、つまりスラム街に入り込んでルポルタージュした本である。
当時の三大貧民窟が、下谷万年町(今の上野駅から鶯谷に向かった東側の一角)、四ツ谷鮫ヶ橋(信濃町と四ツ谷の間、赤坂御所の裏の窪地)、芝新網町浜松町駅の南西の辺り)だったそうで、それらの貧民窟に潜り込んで、そこで生活をした様子を描いている。
聊か漢文調で喩えや表現が大げさで判りにくい部分もあるが、描き出された貧乏っぷりは凄まじいものだ。
いちいちそれを、ここに写していっても意味が無いので行わない。
生まれついての貧乏人は、死ぬまで貧乏であり、そこから抜け出すことなんてありえない姿が、容赦なく描かれている。
貧しくても夢があった時代、なんて言ってる、気持ちの悪いノスタルジー好きは読んでみた方がいいだろう。
また、どうやら貧民窟は東京のそこら中にあったらしきことが、記述から窺える。
むしろス、貧民窟の方が多く、その隙間にお屋敷が建っていたというべきかも知れない。


最暗黒の東京 (岩波文庫)

最暗黒の東京 (岩波文庫)


もう少し補足しよう。
流石に昭和の時代まで貧民窟が残ってはいなかったが、痕跡のようなものは残っていたように記憶している。
例えば、壁がトタン板の家や、平屋ばかりの一角が、残っていたと思う。
それがいつから変わってしまったのかと記憶を辿ると、やはりバブル期だったと思う。
東京の地上げが激しくなっていったのは、そういった遺跡のような街を、金で買い取っていったことに他ならない。
赤瀬川原平の「超芸術トマソン」にも登場する麻布谷町の煙突は、旧貧民街だった麻布一帯が地上げによって一掃され、お洒落なイメージに塗り替えられたメルクマールとして記憶されてもおかしくない。
四方田犬彦の「月島物語」は、佃のリバーシティ21が登場する前夜であり、やはり古い街の痕跡が一掃される時期を記憶している。
それは街の記憶が決定的に失われたメルクマールだったのではないだろうか、と今になって思う。
そしてこの本は、東京という街の失われた記憶に他ならないように思うのだ。


もう一点。
食についての記述も気になった。
鮫ヶ橋には残飯屋という職業があったらしい。
士官学校の厨房から出た残飯を、汁菜(味噌汁の残り?)、沢庵の切れ端、食パンの屑、魚のあら、焦げ飯とそれぞれに纏めて受け取り、貧民窟で量り売りする。
「株切」とは漬物の切れ端、「アライ」とは釜を洗って剥がれたご飯、「土竃(へっつい)」とはパンの切れ端、「虎の皮」とはおこげ、と異名を名づけていたことを、筆者は面白がっている。
また、車夫の食事も紹介されている。
丸三蕎麦は小麦粉の二番粉と蕎麦の三番粉で打った蕎麦で、擂鉢のような丼で出したというから、さしずめデカ盛だろうか。
深川飯は今でもあるが、浅蜊ではなく、馬鹿貝の剥き身と葱を煮て作ったらしい。もっとも、馬鹿貝は青柳なのだから、浅蜊とどっちが高級なんだか微妙だが、筆者は磯臭くて堪らないと書いている。
馬肉飯は、馬肉の骨についた肉をこそげて、深川飯の要領で作ったものと言うから、牛丼ならぬ馬丼といったところだろうか。筆者は膏臭くて食えたものではないと書いている。
煮込は牛のホルモンを刻んで串に刺し、醤油と味噌で煮込んだもの。匂いもきついし、作り方も不潔で、あたかも人肉を煮込んでいるように見えて悄然とすると書いている。
焼鳥は正肉ではなく臓物、田舎団子は小麦粉の団子だが舌触りが悪くて飲み込めた物ではないらしい。
そういった食事を出す店の場所も紹介されている。
神田三河町、下谷竹町、万代橋・和泉橋傍、八丁堀岡崎町、向う両国、本所二つ目通り、当時はこういったところに、車夫たちが食事を取っていたというから、さしずめタクシー運転手の集まる界隈といったところか。
その他にも、木賃宿での食事も描かれていたりする。
筆者がこれらを描写するのに、まるで人間の食事ではないかのように書いているのが気になった。
食について書いているものは、大抵、こんな美味いものがあるというスタンスで描いているのに比べて、ちょっと変わっているのではないだろうか。
もっとも、食ではなく貧困が主眼の本だから、というのもあるのだろうが。