雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

西国巡礼/白洲正子

これももらった本である。

世間では歳を重ねると寺社仏閣巡りをしたり、御朱印集めをしたりするようなのだけれど、自分の場合、元から信心もないばかりか、そういった信仰に向かう気持ちが無いことの実感が増すばかりで、この本はもらっても読まないだろう、と思っていた。

白洲正子も何冊か読んたような気がするけど、あまりピンときていなかった。

しかし、自分の予想は外れ、一気に読み耽ってしまった。

白洲正子自身が信心が薄いようで、信仰心からの巡礼ではない。

西国三十三所を巡って行くのだが、信仰に対する憧れとともに、その視線は、江戸時代の物見遊山、現代の観光に近いものを感じる。

寺社の来歴、古典からの引用、そして著者自身が自然や景色に詠嘆する。

巡礼への誘い、ではなく、ガイドブックのような本なのだった。

この中で私自身が行ったことがあるのは、最初に出てくる那智勝浦の青岸渡寺なのだけれど、あぁその感じ分かるな、という文章だったのも好評価に繋がっていると思う。

 

先祖の話/柳田国男

もう去年のことだけれど、とあるオンライン講座の参考文献でこの本を知った。

柳田国男については、「遠野物語」のイメージが強すぎて、あまり手を出さなかった。

解説するまでも無く民俗学の大家であり、かつて文化人類学に興味が向いていた頃には読むべきだろうなと思っていたけれど、何となく敬遠していた。

興味の対象が、民俗学ではなく文化人類学であることは、この本とは関係が無いので、また別の時に語る。

さてこの本は、日本における祖霊信仰についての考察である。

盆と正月、葬式、法事、墓といった習俗を語りながら、日本の祖霊信仰の姿を顕にしてゆく。

それは、あれかこれかという問題ではなく、幾層にも重なったヴェールを剥ぐように、明治の社会の大きな変動、そして飛鳥にまで遡る仏教の受容によって覆われてきた日本の家という共同体の原型を探り出そうとしている。

そしてその意図するところは明治に語られだした皇国史観への疑義であることが、回りくどく、かつ執拗に語られる。

昭和二十年の四月から五月にこの本が書かれていることもまた、意味を持たざるを得ない。

まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書/阿部幸大

卒論をすっぽかして卒業してしまったので、本当の論文を書いたことがない。

資格試験で小論文を書いたこともあるが、お決まりのテンプレートのようなものがあって、よくある事例に沿って書けば良いようなものだった。

年末年始に新しい勉強でもと、ちょっと気になった本を買ってみた。

タイトルの通り、論文の書き方についてのハウツー本である。

差し当たって論文を書く予定はないのだけれど、なるほどと思う所は結構あった。

アーギュメント、パラグラフ、ふだん聞き慣れない言葉も多く、それもまた新鮮に思った。

 

平家物語(4)

いよいよ佳境に入り、那須与一が登場し、平氏の登場人物たちは次々捕らえられたり、自ら入水したりする。

壇ノ浦の戦いは決定的で、一気に平氏は敗走する。

源頼朝後白河法皇の駆け引きの間で、平家追討することでで勧請を求める御家人達が愈々、平家の末裔達を抹殺してゆく。

そして、平家滅亡に大いに貢献した源義経にも、討伐の勅命が出る。

京都を中心とする天皇と公家の貴族社会と、鎌倉を中心に武家社会が、二層構造に分裂していく様子が窺える。

武家の権力は貴族社会たちからオーソライズされたものであり、その振る舞いは貴族社会からチェックされている。

貴族社会の権力の源は、天皇家の神話世界から続くシャーマニズム的な儀礼と祈祷、そして仏教的な色彩に染められた来世、彼岸にあり、寺院社会が司っている。

寺院社会が特徴的なのは、貴族社会の権威を補足しながら、武家社会から逃げ込む「出家」という通路を開いてるところだと思う。

貴族社会は現実世界の平和や五穀豊穣を実現するための、生の世界のシャーマニズムであり、寺院社会は貴族社会からも武家社会からも避難することができ、現実世界を脅かす天変地異の根源となる怨霊や祟りを鎮めるための、いわば死の世界のシャーマニズムを担っている。

源頼朝が平家を一人残らず抹殺しようとするのは、武家社会で行われる敵討ちであり、自身がその論理で動いているからでありつつ、滅亡させられた者たちの怨霊にも恐れをなしている気配があるように思った。

ともあれ、次々と平家の人々が殺されて、悲嘆に暮れる陰鬱な物語は、ようやくこれで読み終えたので、普通の読書に戻れるだろう。

 

眠る盃/向田邦子

平家物語を読んでると、気が滅入ってくるので、間に他のものを挟みながら読んでいる。

この向田邦子のエッセイは、去年にもらったうちの一冊で、「父の詫び状」に続く2冊目のエッセイ集とのこと。

主に70's終わり頃に雑誌に掲載された文章が並んでいるが、たまに69年の頃のが入っている。

軽く読める文章なのだが、比喩表現に面白さもあると思う。

79年は、ちょうどNHKで放送された「阿修羅のごとく」を観ていたのだが、まだ子供だったので向田邦子の脚本とも知らなかった。

 

 

平家物語(3)

岩波3巻目は、原本の7〜9巻が収められている。

平家がどんどん都落ちしていき、京都に源義仲木曾義仲)が上洛してくる。

香川の八島に潜む平家に、木曾義仲が討伐に向かうが敗退し、京都での評判を落とす一方、源頼朝征夷大将軍を鎌倉で拝命し、義仲討伐の流れが起きる。

あまりはっきりとは書いていないけれど、木曽義仲は公家たちの反感を買ったのもあるようだし、頼朝自身が権力を集めたい気質のような振る舞いにも見える。

数々の戦いが描かれ、義仲とその家来の四天王の最後は凄まじい。

次から次へと平家の人々が殺されていく様が描かれる9巻は、何とも言えない陰惨な物語のように思う。

しかも、次から次へと首を切られる。

源氏が武家であるように、平家もまた武家であり、一対一の戦いに勝つこと、勝てないのなら切腹して果てて、名を守るという価値観はどちらにも共通している。

また、巴御前源義経といったヒーロー級の登場人物が出てくるが登場する。

姫君を喰う話/宇能鴻一郎

宇能鴻一郎の名前は、団鬼六川上宗薫と並ぶポルノ小説の大家としてであり、実際にその作品を読んだことはなかった。

今までの知り合いでも果たしていただろうか。

もちろん教科書に取り上げられることもなく、ただ文学史を眺めていると、この本にも収められている「鯨神」で、芥川賞を授賞している。

最近この短編集が発売されたようで、気になっていたので買ってみた。

初めて読んだが、久しぶりに物語の世界に引きずり込まれるような作品に出会った。

「姫君を喰う話」は、場末のもつ焼き屋で呑むところから、もつに関する蘊蓄があり、平安時代の伝承のような話へとつながる。

偶然なのか、呼ばれてるのか、並行して読んでいる「平家物語」の世界である。

それで一気に引き込まれた。

「鯨神」は長崎辺りの漁村を舞台とした、鯨獲りの物語である。

貧しい漁村の鯨獲りの伝統(ただし、史実とは限らないだろう)と鯨との命をかけたやりとりの物語に、読み進むのが惜しいとさえ思えるほど引き込まれた。

全然違うのだけれど、中上健次の熊野を舞台とした作品を読んだときの印象に似ている。

土着とか、民俗とかから、普遍なものへと突き抜けるような物語である。

併録されている他の短編も、ぐいぐいと妖しい物語の世界へと引きずり込まれる。

今まで読んでいなかったのは、自らの教養が足りない証にほかならない。