雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

模倣と創造/池田満寿夫

池田満寿夫氏の作品について、何か語れるほど知っているわけでもない。
子供の頃のおぼろげな記憶では、モジャモジャ頭の芸術家だ。
版画や映画、そして小説を手がけていたと思う。
エーゲ海に捧ぐ」や「窓からローマが見える」はどんな話だったろうか。
この本をどこで見つけたのかも覚えていない。
長いこと本棚の片隅にあったのだけれど、読んだ記憶もない。
日焼けし、湿気でページが反ってしまっているから、古本屋の段ボール箱から拾い上げたのかもしれない。
これは池田氏の芸術論である。
書かれたのが、1969年ということは念頭に置かなければいけない。
今となっては、岡本太郎赤瀬川原平の芸術論(または、反芸術論だろうか)と並べてしまうと、聊か古くさい。
だが、芸術にとっての新しさは、この本でも言及されているが、ひとつの価値だろう。
その点で、池田氏の作品は見劣りしてしまうのだろうと、推測してしまうのだけれど、作品としての価値が全面的に否定されるものでもない。
岡本太郎氏の芸術観は、シュルレアリスムからプリミティブへと至る、あたかもシュルレアリスム的な文脈と捉えることができる。
赤瀬川原平氏の芸術観は、ダダからポップアート、ネオ・ダダを経由し、芸術概念、作者の概念そのものの解体であるトマソンへと至る文脈だろう。
彼らに比べると、池田満寿夫氏の芸術観は、芸術そのものを擁護し、創造の可能性を信じているようだ。
日本の現代美術の酷評に対する反論から始まるこの本を読んですぐ念頭に浮かんだのは、オタク文化がネットを媒介として広まっている現在の状況を池田満寿夫氏が見たらどう思うのだろう、ということだった。
そして、奈良美智氏や村上隆氏、会田誠氏らの向こう側から、この本は読まれるべきではないのだろう。

模倣と創造 (中公文庫 M 64)

模倣と創造 (中公文庫 M 64)

記事をアップしてから考えたのだが、何か腑に落ちていない。
読み手として、芸術だとかアートだとかに、前衛的とか普遍性とか求めていない自分に気付いた。
池田氏が主張することのほとんどが、興味を失ってしまった事柄だったのだ。
美術手帖を毎月読み、展覧会に足繁く通ったのは、20代までだったろうか。
いつしか、興味を失った、というより、古典の中に潜む先鋭さを見ていたように思う。
新しいだとか、過激だとか、批判精神だとか、そういうことに疲れたのだろうか。
それもちがう。
たぶん、時間の流れが一方向である前提で、史観的に追いかけることを止めたのではないだろうか。
いつしか、円環する時間の中で、あらゆるものが先鋭的でありながらも、伝統的であるという視線で見ようとしている気がする。
あらゆるものはコピーされ、編集され、それは新しくもあり、いつか見たものであるような世界になっている。
停止しているのでもなく、だが、一方向に流れていくものでもなく、ある種の円環構造と層構造の中で、切断線を引いていくようなことが必要なのだろう。